自殺願望者

「俺今から死ぬんだー」

 それは楽しそうに、軽快に笑いながら彼は言った。

「は?」

 空は暗く、都心からほど近い大きなビルの屋上で彼はくるくると回る。実際自殺をしたのは私の鞄で、床に叩きつかれるように一度跳ねてから転がった。
 自分でも驚くほど拍子が抜けて、声が裏返ってしまった。いろいろ思考を巡らせてみたが、人間の脳内はICほど回転も速くないし、アナログだから進みもしない。

「だからさ、俺の背中押してほしいんだ」

 その前に目の前の人間は誰だろうか。コーヒーが飲みたくて、仕事終わりに屋上に来てみたらこの様だ。誰がこんなこと予想したのだろうか。自分より少しだけ童顔なあたり、10代後半の新入社員とかその辺だろう。背後で高層ビルが光り輝いているというのに、彼は夢の無い事を言う。最近の若者はよくわからない。というが、実際自分もその若者だろうから何も言えないのだろうけど。

「飲む?」

「最後の飲み物が缶コーヒー。ま、庶民的でいいかもしれないですね」

 ピタリと足を止め、こちらに寄ってくる。冷たい缶を受け取ると、音をたててプルタブを開けた。喉を鳴らして体内に流し込む。飲むというより流し込んでいる姿は本当に男らしいというか、そんな感じだった。
 スーツ姿で近くに置いてある鞄も新しい。新入社員、というのはまんざら間違いじゃなさそうだ。しかし髪も整えてあったのだろうけど諦めて乱れているし、気が抜けたのかネクタイも緩んでいる。
 何か自分は彼を見捨てることができなくて、コーヒーを飲んでいる姿をジッと直視していた。

「ねぇ、一緒にどう?」

 そう言って彼は飲みほした缶コーヒーを私に差し出してきた。
 屋上ということもあって風は強く、私の長い髪を靡かせた。髪に手を掛け、乱れた髪をほぐすが風がやまないので殆ど意味がなかった。

「あなた名前は?」

「そうですね……。じゃあ井上で」

「じゃあって何よ」

「だって本当の名前とか言いたくないじゃないですか」

「そう。どうでもいいけど。で井上君、君今何歳?」

「今年で二十一歳。そういう貴方は?」

「はぁ。私は夏目よ。夏目でいい。歳なんか女性に聞くもんじゃないわ。あなたよりは上だけど」

 これまた変な縁を作ってしまったのだと、ひとつ後悔。月だけが空を独占し、地上には星のようにビルの窓から光が漏れている。車も葬列のように列を成していた。
 これが、彼の見る最後の景色だと思うと、少しだけ羨ましくなった。こんな綺麗な景色を最後にするなんて。この景色が一瞬でも彼のものになるのが、本当に少し、羨ましくなる。

「じゃあ夏目さん、ありがとう。俺の無茶聞いてくれてありがとう、それだけでちょっと幸せだったかもしれないです」

「いいの? 後悔は?」

「んーーー。特に無いですけど、ひとつ、あるかな」

 彼、井上は二コリと笑い、私に手を差し伸べてくる。とっさのことで理解できず、ぽかんと口を開く。井上は満面の笑みだ。それは死ぬにはもったいない、純粋な笑顔。人生に後悔しか残さない自分とは違う純粋なものだった。

「俺さ、気になることがあって。それをさ、夏目さんに任せたいんだ」

「何?」

「この近くに○○公園ってあるの分かります?」

「ん、ビルの陰にある小さな公園でしょう?」

「そうそう」

 そうだ。最近工事でなくなるとかって言っていた○○公園。遊具もあったから子供もちらほら見られたような。連日パンダの着ぐるみを着た人が風船を配っていたような。面白いことにその中の人はまだ若い……。

「貴方……”パンダ”?」

「え?」

 公園の隅で休憩していたのを偶然みた気がする。濃い茶髪の青年だった。私よりも少し年下で、嬉しそうに汗を拭いていた。
 それから子供に見つかって遊ばれていたっけ。本当に、子供が好きなんだろうなって思える笑顔を見て、昼休みがいつもより幸せだった記憶が蘇る。

「なんで知ってるんですか?」

「ちょっと散歩してたらみかけただけ」

「っぷ」

 井上は噴き出して手を離す。それからおなかを抱えて笑いだした。変わったやつだなぁと私は思いつつ、本当に馬鹿みたいな縁だなぁと実感した。

「パンダは前の職場での宣伝係だったんだ。今はこっちの会社入ったからやってないけど」

 彼の声は小さな屋上に反響して私に飛び返ってくる。嬉しそうに答える姿が、本当にそれが好きだったんだと私に実感させた。

「で、その公園がどうしたの?」

「うん、その公園に猫が居るんですけど」

「猫?」

 やっと井上は笑いをおさめ、膝に手を置いて、少し屈む。それでも笑顔を消すまでは至らなくて、なにかと話の途中でも笑うのだった。印象としては、よく笑う青年、というところだろう。
 そして猫、というのは捨て猫とかってことだろうか。

「そう、あの公園の公衆トイレの外の屋根の下に居ると思うんですけど、飼ってくれません?」

「飼ってって……」

「無理なら餌を上げるだけでいいんです。そのうち誰か拾ってくれれるだろうし」

「あなたは……」

「はい?」

 あぁ、やっぱり死ぬのはもったいない。

「死なないでって言ったらだめ?」

「だめ」

「どうして?」

 やり取りがまるで子供のようだった。どうして、なんで、そんな質問ばかり。そして井上の返答は自分が期待している逆のことを言うんだ。
 だめだと思えど、井上と私の距離はどんどんと離れて行った。彼の背後には高層ビルと夜景の星。

 嫌だ

 勝手なことと分かっているのだ。こんなことは。人間が生まれ、そして死ぬことは当たり前のサークルであり、自分の命を誰かの身勝手で動かすこともだめだと分かっている。そうずっと自分は考えてきた。

 近所のマンションで飛び降り自殺があった時も冷たくも流し、そういうもんだ、今さらどうこう思うこともないと思っていた。いや、思いこんでいた。

「俺は、自分を殺すことで正常を保ってきた。でも、もうだめなんだ。俺は死なないといけないんだ」

 暗示。それはまるで自分を殺すことへの暗示の言葉だった。笑顔が完全に消え、彼の体もすっと闇に紛れる。ゆれる服が僅かに私の意識をつなぎとめた。
 死ぬ理由などどうでもいいものだろう。生か死かの世界だ。理由など必要もないと思っていた。それはきっと現在も変わらないのだろうが、必死に脳内では否定を捜索し続ける。あぁ駄目だ自分はと、自己嫌悪。何もできないなんて、もう嫌だと思っていたのに。
 大人になろうと頑張ってみたが、まだまだ子供なんだ。社会に出て後輩もできて、やっと仕事にも慣れてきた。それでも大人にはなれなくって、末には何が大人なのかと分からなくなってしまっていた。
 日々酒を飲み、疲れた体を男で癒していた。間抜けで子供じみた考えだったことは分かっているが、そうしなければ、自分を保つことは不可能だった。あぁ。なぜ自分が彼を、井上を止めたいのか分かった気がした。

 彼は私だからだ。

 井上は私とそう変わらない。未来もあって、仕事もあって。それでも「幸せ」と感じられない惨めな人間だったからだろう。
 そんなこと思っても、もう遅いのだろうか。私は。

「ねぇ井上君」

「ん?」

「私も死ぬわ」

「…………………は?」

 裏返った彼の声に、自分も噴き出してしまう。
 そう難しいものじゃないだろう。彼がこれだけ未来があって、でも死ぬという選択肢を選ぶなら、同じ私も死という選択肢をとってもおかしくないだろう。むしろ人の死ひとつにそれほど意味もないのだろうから、私が死んだって世界がおかしくなるわけでもない。何人か人が泣くくらいだろうから。それにその涙なんてすぐに乾く。「そんな人居たね」で忘れられるのが目に見えている。

「待って待って。なんで?」

「だって死んだっていいじゃない。後悔とかないし」

「え、え、仕事とか、家とか……」

「仕事なんか、私死んだら後輩なり上司なりがなんとかやってくれる。家は一人暮らしだし、死んだら友人がどうにかするでしょう」

「えっと……夏目さん、いいの? それで」

「ええ。いいわよ」

 彼は予想外の私の発言に終始戸惑っている様子だった。暗闇に消えそうだった井上が急に慌ててこちらに戻ってくる。
 呆れたものだ。私が死ぬと言えばそうやって”こっち側”に戻ってくる。

「死ぬんだよ?」

「そうね」

「……っ。貴方が死ぬ理由はあるんですか。そんな簡単なもので死んでいいんですか?」

「死ぬことに理由なんて必要ないわ。生か死、どちらかでしょう。なに、今死のうとしていた人が何を言っても説得力なんてないわよ。井上くんだって同じことよ」

「夏目さんって、変わった人ですね」

「よく言われるわ」

 ふふ、と二人で笑う。何かこの会話、おかしくなってきた。死ぬことへの恐怖なんて無くって、彼と居るのが楽しくなる。あぁ、これじゃあ死ねない。そう変に思うのだ。

「あの、夏目さん」

「なに?」

「猫、一緒に見ません? ”ちー”と”トラ”って言うんです」

「……ま、それもいいかもね。それからその後はどこかで一晩飲みましょうか」

「お酒好きなんですか?」

「そうよー? 私いける口なのよ。井上君は?」

「俺もいけますよ」

 そう言って井上はネクタイをしめ、スーツのボタンを閉めた。その辺に無造作に置いてあった鞄を取り、こちらに駆けてくるのだ。後輩、というのはどいつもこいつも落ち着きがない。といえば、上司もこんな気持ちなんだろうと一人で笑った
。  空は変わらずに月が占領し、地上ではこれまた変わらずにビルの光が幾億もの星を作り上げている。
 俯瞰風景は美しく、飛び降りという感覚を呼び覚ましたが、自己規制と彼のせいで自分はまたも自殺を逃してしまった。
 何度目になるのかこの自殺願望は。私はいつになったら死ねるのだろうか。そう思うばかりだった。
 同士になった井上は、あと何日もつのだろうかと、浮かれた背中を見ながら思うのだった。

 屋上には風が吹き抜け、そうして循環される。
 なんども来た屋上は、今日も私を拒絶するのだった。




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