月の橋
そこにあったのは、たぶん、いつもと変わらない景色でしかなかったんだろう。
それがあまりにも綺麗だったから、ふと足をとめた。何気ない事だたったのかもしれない。もしかしたらとても大事なことなのかもしれなかった。
駅ホームには、明りが一つ。街灯が点滅しながら灯っていた。虫が何匹も群がり、時に落ちたり、時に飛び上がる。
自分の片手には電車に乗る前に買った缶コーヒーがひとつ。肩にはスクールバッグが中の教科書を支えきれずに垂れ下っている。制服が我ながら乱れ切っていて、リボンは苦しくて居心地が悪くて電車から降りるときに外してしまった。
夏の涼しい風が屋根しか無いホームを駆け抜ける。電車は何分も前に駅から左方向に流れるように消えていった。
空には星空が広がり、ぽかんと口を下品にもひらきっぱなしにしていた。今日は満月で、雲もない。月が光りすぎていて星はその光に負けていたが、負けじと我こそはと光を強く強く発光させていた。
家も見えない駅から見えるのは、大きな海原。生まれて今までそう気にしていなかったが、月が海面に橋を作る姿を見ていると、動くこともできず、その景色をただただ見ることしかできなかった。
「わっ!」
「っ!? ちょっと、びっくりしたじゃない」
私は驚き、持っていた缶コーヒーから手が離れて地面に落ちてしまう。そのままコロコロとそれは転がり、吸い込まれるように線路に落ちて行った。幸い蓋は開いていなかったが、なんとなくそれを取りに行く気にもなれなかった。温かかったら少しは考えるだろうけど、もうずいぶんぬるくなっている。
「あーーぁ。キーくん、ちゃんと取ってよ?」
「へいへい。ちゃんと取りますよ――っと」
彼はため息を吐き捨てると、ホームから身を下ろし線路に降りた。夜も遅く電車ももう来ない。見つかったらあまり良い顔はされないだろうけど、車すらさっきから見えない。
「って真琴、これ冷えてるじゃん」
「そりゃあ○○駅からずっと持ってたから、そりゃ冷えるよねー」
よいしょとホームによじ登ってくると、彼は私は缶コーヒーを手渡し、疲れたようにベンチに座った。
そんな彼の背中を見て、あぁ成長したなぁとか、そんなことばかり考える。
「それよりなんで今日終電なんだよ」
「そんなのキーくんには関係ないもん」
「関係ないって。ここで待っている俺の身にもなれよ。暇なんだぞ?」
ベンチの右側は空いていて、彼はとんとんとそこをたたく。要するにここに座れってことなんだろうけど。一つため息を吐くと、私はスクールバッグをベンチのそばの鉄柱の根元に置いた。
隣に座ると海がそのまま見え、砂浜が広がっているのが目に映る。月の橋は水平線をまたに架け、波の音は一定のリズムを刻み続ける。
彼の隣に自分は腰を下ろし、顔なんて見れないから無理をしてそっぽを向いた。
「あ、えっとね、今日は部活の買い出しとか、今後どうするか考えてたんだよ。だって9時の乗り遅れちゃったんだもん。しょうがないじゃん」
「それなら一本くらい連絡入れてくれよ」
「それは申し訳ないと思ってるけどさぁ……」
もじもじと両手の人差し指をぐるぐると回した。どうもこうもないのだろうけど、そんなツンとした彼の声を聞いていると、申し訳ない気持ちと、今さらどうしろっていうんだという理不尽な考えが浮かんでくる。
月は上昇しているのもかかわらず、自分がそれを確認することはできない。そりゃあゆっくりすぎるのもあるだろう。しかし、本当にそれだけなのか、と言われればそうなんだろうなって自問自答を意味も分からずしていた。
「ねぇねぇ、希一? あたしね、今日みんなに褒められたの」
「……で?」
吐き捨てるかのような冷たい言葉に、心底落ちこむ。けれども彼のペースに巻き込まれて泣くはめになるのは、何年も前から知っていること。ここは負けじと私は次のセリフをどんどん思い浮かばせていった。
「"真琴のくせによくやったわね"って褒められたんだ。凄いでしょ」
「それは全然すごくないよ」
「……………………………。なんで?」
少しだけ間が開く。否定された現実に、彼氏である彼は私をどう思っているのかまでよく分からなくなる始末だ。どうして凄くないんだろうか。私は皆に褒められることをしたというのに、肝心の彼氏には何も褒めてもらえない。息ができないくらいにショックを受けてしまっていた。ドの付く直球だ。
「なんで……。希一、いっつも私を褒めてくれない。私、そんなにだめな子?」
「うん。真琴は何もできない役立たずだ」
「じゃあ私はいらないの?」
涙目になって、視界がぼやけてくる。海に映った月が歪んで月までの橋は距離を伸ばしているようだった。
結局は彼のペースに飲み込まれる。ボロボロと落ちる大粒の涙が地面のコンクリートに落ちると、そこだけコンクリートの色が変わっていく。
「でも、それが真琴じゃないか。あのな、真琴。"真琴のくせに"って時点でお前は褒められてないんだ。分かるか? もうやめろよ、そんな部活。俺、真琴がいつも無理して笑ってる姿見るのつらいんだ。本当の笑顔で戻ってきてほしいんだ」
「あたし、役立たずなんだよ?」
「そうだな」
「っ……。キーくん、私のこと嫌いなの?」
「まさか」
あっさりと考えを否定するのは、彼の得意技なのだ。それは分かっている。しかし、いつも彼の言葉を聞いているととても自信がなくなって、こんな私でいいのかと疑ってしまう。
かと思うと彼は私の手の内にあった缶コーヒーを取り、勝手に開け始める。私がそっちを振り向くと、ふいに彼は私の腕を引っ張った。
波の音が耳をつく。
彼の瞳に吸い込まれそうになって、目を閉じた。
「なぁ真琴、俺はお前が好きなんだ」
「…………………。嘘」
「嘘じゃない。俺はお前に笑っていてほしいから」
「じゃあなんで――」
波の音。コーヒーの香りと苦み。ほのかに香る塩の匂い。
声が出せない。息もできない衝撃。温かい。彼の行動が理解しがたい。なぜキスなんてしたんだろう。それが、私にはイマイチわからない。
しばらくして唇が離れ、やっと目を開いた。
彼の瞳には、確実に私が映っていた。そらさずじっと見つめる瞳に、すべてが飲み込まれるようで、少しだけ怖かった。
「無理やりじゃない」
「どうかな」
くすりと笑った彼の顔は、いつでも卑怯そのものだった。
それに誘われる私も、やはり彼という中毒にかかってしまっているのだろう、なんて。
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