鳥籠

「あのね、それで幸助ったら馬鹿みたいに転んだの!」

「あはははは! 馬鹿じゃないの、ほんとに!」

 学校の帰り道、明音と水穂は陽のあたる河川敷を歩いていた。夏の夕暮れ、肌に少しだけ気持ちがいい涼しい風が当たる。空は一面赤くて烏が何羽も二人の頭上を通過する。

「でさ、幸助ってばそのまま階段から落ちて!」

「ちょっと明音! 私をこれ以上笑わせないでよっ」

 水穂は腹を抱えて大声で笑った。ついに足が止まってしまったので、クルリと振り返って明音は仁王立ち。なんとも男らしい姿。

「でもね、聞いて。あいつそのまま保健室。捻挫だって」

「あっらー、またそれは豪快に落ちたわね」

 本気で真剣なまなざしで明音はつぶやく。眉を寄せてセミロングの髪を一度触る。
 声はだんだんと小さくなる。太陽が沈むのと比例して。

「でも、さ。あたしね、思ったの」

「うん、どうした?」

「そうなったときにね、本気で笑えなかった。いつも幸助は無邪気で馬鹿で、天才的に馬鹿なのに。階段から落ちていくのが怖くて。痛がってる幸助は笑い物じゃなかった」

「大丈夫? 所詮幸助よ?」

 少しだけの間。彼女たちの距離は近いようで遠くて、頭を悩ませた明音が鞄を河川敷の坂に放り投げた。

「だーーー! 最悪! なんで……。馬鹿みたい!」

 ゴロンと坂に落ちていく鞄。追いかけるように明音も道路から坂に乱入。大の字で治まった。
 呆れたように水穂が明音の隣に座った。何年も見てきた風景は、いつでも癒される。
 二人の距離は近くて、二人の気持ちの意思疎通しているようだった。何もしゃべらなくても分かる。水穂はそっか、と一言告げる。

「なるほどねー。実はずっと前からでしょ。隠し切れてると思ってた・」

「へ? いや、えっと。な、な、なんのこと?」

「隠しても無駄だってばー。幸助のこと好きでしょう。親友にまで隠そうだなんて、相談くらいしてくれたっていいでしょうにー」

 ばっと起き上がり、まじまじと水穂の顔を見つめる。多少の間があったと思ったら夕焼けのように真っ赤に染まる明音の頬。ば、ば、ば。口が高速で動いているが、一向に言葉になる気配はない。きょろきょろとあたりを見渡してはぱくぱくと金魚のように上下する唇。

「ば、ば、馬鹿じゃないの!? す、す、好きとかじゃなぎふるうぇ……!」

「あはは、言葉になってないぞー? 焦ってるって図星でしょう。いつから? いつから好きなの?」

 明音の気持ちなんかお構いなしに水穂は詰め寄った。坂の下に転がった鞄からは、携帯がそっと顔をのぞかせる。

「1年の……。いつかわかんないけど、気が付いたら…………。好き、だったの」

 小声にもほどがある。と水穂は内心で思った。目と鼻の距離くらいに近付いてもなお、明音の声ははっきりと聞きとれなかった。

「1年って、もう2年も前? 3年生になってからなんて。もったいないことするね。告白しちゃえばよかったのに」

「こくはく!? 何それ、美味しいの!?」

「とっても。甘くておしいわよー?」

「もう水穂! からかわないで!」

「もう、可愛いったらありゃしない。……っと。あれは……」

 そういって水穂は橋の方向を向き、首を傾げた。少し足を引き摺りながら気分を落として歩く青年。幸助。うわさをすればなんとやら。そういえば家はこっち方面だったと、いまさらの後悔をし始めた明音。しかし幸助も気が付いたのか、痛いだろう足を引きずって二人の元に駆けてきた。
 明音のドキドキはマックス。最高潮に達して林檎のような赤さ。どうしたものかと不審者のごとくきょろきょろと辺りを見渡している。

「おー。明音に水穂。おつかれさーん」

「おつかれー。足大丈夫ー?」

 かかんに話す水穂。それに小さくビシビシと嫉妬を燃やす明音が、その場から立ち上がって鞄のある坂下に無言で向かった。

「なんだあいつ」

「反抗期なんじゃなあい?」

「反抗期? 今さらかー。って、転んでるし」

 ゴロンと一回転。幸助の目の前で明音は前転一回転して、尻もちをついた。あわててその場に向かう幸助。それを見てにやにやとする水穂。日は落ちかけていた。空は赤と紫のコントラスト。

「おい、大丈夫か?」

「こ、これくらいっ!」

「ほら、手貸してやるから。つかまれって」

「いいよ……。一人で立てるし」

「いいから」

 無理にでも立たせたいのか、幸助は無理やり手を掴んで引っ張り上げる。明音はもう顔も見れなくて、終始足元ばかり見ていた。それがさっき転んで落ちた原因だろう。
 お尻についた草を払い、小さな声でありがとうと呟いた。それが幸助に聞こえたかどうかは分からないが、幸助は笑って答えた。

「お前は昔からそいうことしてるから心配なんだ」

「すいませんねー、馬鹿で」

 地面に転がった鞄を拾い上げ、落ちた携帯も鞄に詰め込む。なぜか恥ずかしくなった一つひとつの動作が早くなっていく。

「あれ、水穂がいない」

 ふと坂の上を見ると、さっきまで居たはずの水穂がいなくなっていた。これは困ったと内心明音は焦っていた。これからどうしようか、とか。何を話そうか、とか。
 ただ明音の心の中には、「告白」という言葉かはなれずこびり付いていた。

「さて、そしたら俺らも帰ろうぜ」

「そうだね……」

「どうした? なんか鞄散らかして中身なくなってるのか?」

「いや、そうじゃなくて」

 そしてモゴモゴタイムが開始した。明音があぁ、まただと首を振る。言いたくても言えない。断られたらどうしよう。もう今の関係に戻るなんて不可能だと考えると怖くてしょうがないくて。明音がいろいろ考えていると、幸助はぐっと腕を引いた。

「あのさ、俺、急だけど」

「あ、え?」

「俺、な。お前が――――」










 それから先は、思い出せない。大好きだった彼のことは、覚えているのに。あぁ、一番大切な部分を落としてきてしまったのか。

「ようこそ、鳥籠へ」

 真っ白の部屋はまるで「無」を連想させる。何もなくて、あるのはベッドと椅子とテーブル。卓上には白い黒電話。見上げれば天窓。あの日と同じ赤い空。烏の群れ。
 そして見たことが無い、黒い長髪で顔の整った青年。白いワイシャツに下は何を履いているか見えないが、とりあえず、死人のように顔が白かった。
 まるで幽霊だ。

 テーブルをはさんで反対側には、青年が笑顔も何も浮かべない、つまらない顔をしている。
 私は、私は、なぜこんな場所に居るのだろうか。

「ここは鳥籠。飛び立つための休憩所。安息の地」

「飛び立つ? どこへ」

 青年はその無表情を変えず、すっと指を立てて真上を指した。そこには空と鳥しかいなくて。
 首を傾げると、彼は呟いた。

「天国」

 ロボットのような単調な喋りが、皮肉にも耳についてしまった。耳を塞ぎたい衝動すらも突破する、受け止められない現実に私はしばし、息を忘れ考えることを止め、現実逃避を図った。
 そうすることによって何も変わらないのは分かっていたが、まだ、まだ、耐えられるほどの勇気など持ち合わせていなかった。

 絶望と空虚な気持が襲う。

 耐えられる、わけが無かった。

 

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