白色の箱
「気分はどうだ。少しは和らいだか」
「馬鹿じゃないの、そんなわけないじゃん。死んだことを受け止めろなんて。できるわけない!」
そりゃそうだと、私は深く頷いた。いつ暴れだしてもいいほどに彼女は錯乱していた。彼女がここに来てから早5分。いつまでたっても治まる兆しはない。
ガシャン、ガタン――
椅子を蹴り倒し、息を荒くする。大粒の涙がいくつも襟に吸い込まれていく。それを、私は追々見ている。それしかできないからだ。
ここにはそれを拭いてやるすらハンカチなど存在しない。
「天国? 鳥籠? もういい加減にして。私は帰るの。幸助だって待ってるし、水穂も居るし。晩御飯も冷めちゃう」
「いいや、あれからもう1週間は経っている。葬式も行われているし、お前の身体はもう地上で存在していない」
「なにその冗談。待って、待ってよ。私、まだやりたいことも沢山あって。やっと幸助にも……。幸助にも。あれ、あれ」
涙をぬぐいながらも目から溢れる液体は止まることはなかった。いつかこの床が彼女の涙で一杯になるのではないかと疑うほどに。それは透明で輝いていた。
何度も彼女は首を傾げ、思い出せないような記憶に戸惑っている様子だった。それは”いつものこと”で、死亡前後の記憶が無くなってしまうことは普通と言える。
そんな自分の記憶が曖昧で、ここがどこかもわからず、死んだことも気が付かず。不安と絶望は彼女の中で弄っているのだろう。
「幸助……。水穂……。お母さん……お父さん……。いやだ、まだ、死にたくなかったのに……。」
転がった椅子の隣で、同じように崩れた身体。言葉はいつの間にか単調になり、涙で声もまともに出なくなる。
空は赤い。烏が何度もこの部屋に黒い影を落としていく。私は、そんな彼女のそばに寄る。
「死は誰もが平等に訪れる。それが少し早かっただけだ。今は休め。休まなければ何もならない。どうしようもないことで泣くのは、涙がもったいない」
「さいっ……てい。最低、最低よ……」
弱りきった身体でポコポコと私の肩を叩いてくる。それが、彼女なりの反抗だったのか、心無い言葉しか掛けることができないのが、今は惜しい。
もっと言ってやりたい。地上から聞こえる親族や友人の声が、本当は君にも聞こえることを。辛いことばかりではないことを。
「うわぁぁぁぁああああ!!」
泣き崩れる彼女の背中をさする。温かみが幽かに手に滲み、制服姿の彼女の背にシワが寄っていく。
それから何分経ったか。烏の姿も声もしなくなり、空がすっかり暗くなる。
電気は無いので月が上がるまで待つしかない。前も後ろも分からない暗闇で、彼女がどんな表情をしているのか、まだ泣いているのか、それは分からなかった。
「……。あの――」
1時間ぶりとも言える彼女の声。震えて小さくなった声に、私はもう一度背中をさすった。
「ありがとう……ございます」
「いや、それが役目だから」
「役目って、貴方は誰なんですか? いや、言い方が悪かったですよね。すいません。ちょっと気になって……」
少しだけ落ち着いたのか、前よりは声ははっきりとしていた。眼を腫らして無理やりほほ笑んでくるその顔が、見えないのになんとなく見えるようだった。
「私は……。私は私以外のなんでもない。ここの管理人で飛び立つ鳥を見送る者。鳥はやがて鳥籠から飛び立っていく。それを見送る鳥だ」
「鳥? あ、そういえば鳥籠とかって言ってたっけ。それじゃあ私はいつか飛べるの?」
「いつか、というよりは、今すぐにでも飛べるはずだ。けれどもお前の心はまだ落ち着ききっていないようだから、もう少しじゃないか?」
「うーん。なんか分からないなぁ。というか、貴方も鳥なら飛べるんじゃないの?」
「あぁ、私はドード―だから」
「ドード―?」
そこまで言って私は頭を小さく振る。何を言っているのだろうか。止めよう。これは考えないようにしたはずだった。やめよう。やめよう。
「なんでもない。それで、お前は何か未練でも地上にあるか?」
「未練……」
未練という言葉は彼女にはしっくりこない言葉らしく、少しの間が開いた。梟が鳴きはじめたのが、はっきりと分かる。
「今まで迷惑をかけたこと、両親に謝りたい。大好きだった水穂にもありがとうって言いたかったし、幸助にも……」
指折り数えるように、一つ一つ上げていく。「幸助」という人物には思い入れがあるのか、あーだこーだと言っている。しかし胸にひっかかるらしく、違うと繰り返して呟いている。
「あの、私、死ぬ直後のこと何も覚えてなくて」
「いや、それは覚えてないんじゃなくて、自己の中に封印しているだけだ。だれしも自分が死んだ事実は受け入れられないから、中に閉まっているんだ。思い出そうと思えば思い出せるはず」
「そんなこと言ったって……」
月が上に登ってきて、彼女の顔がぼんやりと見えてきた。焦っているような、戸惑っているような。眉をひそめて考え込んでいる。
「……。怖いなぁ」
こちらに聞かせないつもりだったのか、小さすぎる声は反響もせずに消えて落ちた。
とりあえず床についている彼女の手の上に、私の手を置いた。何故か人というのは自分以外の人の体温に触れると安心するとかなんとかって、随分前の鳥が言っていた。
そんなことをしたから彼女は戸惑い、呆気にとられた顔をした。そんなとぼけた顔に私は笑った。
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