羽ばたき

 空は犬梅擬の実のように赤く染まり上がっている。
 白いはずの雲も、流れて消えていくはずの川も、そして私や幸助の瞳さえ、全てを紅色に染めていく。心に突き刺さる、恐怖にも似た感覚だった。
 夏とはいえ、夕方は涼しくてほほに川から注ぐ風が心地いい。橋の下に立った私と彼は、結局はそんなことまでその時は頭が回っていなかった。
 烏が鳴いている。煩くて、それがあまりにもリアルで。声が出ない衝撃に包まれる。

「それって、どういうこと」

「だから……」

 確か私は河川敷の下に鞄を投げたから、それを取りに行こうとして。それでどうしたんだっけ。

「俺は、お前が、好きなんだ」

 愛の告白か。これは。嘘でしょう。それは。だって私は絶対に彼から嫌われているはずの存在で。じゃあこれは誰だ。目の前の幸助に似た彼は、誰だというのだ。
 これは、夢か。

「待って、待ってよ。ちょーーっと、待って」

 もうまともに前も見れなくなる。恥ずかしくて、嬉しくて、私はそんな胸の音を聞かれるのが嫌で一歩後ろに下がった。
 深呼吸。1回じゃ足りっこない。2回、3回、もう治まりっこない。だって、こんなにも嬉しいこと今までになかった。

「あのさ、返事とか、別にいつでもいいから」

「あ、いや、待って」

 去ろうとする彼の制服の裾をつかむ。何してるんだ。なんだこの少女漫画みたいな展開。18にもなってこれはないだろうに。
 それからそうしてから私は気が付く。なにやってるんだろうなぁって。何を言う? 彼になんて言えばいい?

「最低。」

「はい?」

「馬鹿じゃないの!? なんでそんな自分勝手かなぁ……。自分が何言ってるか分かってる? 好きって意味知ってるの?」

「……。おー、そう来ましたかー」

 はっとなってももう遅い。その場から去ろうとしていた彼の足は止まり、こちらに振り返る。短い髪が、草の匂いと共に揺れた。空は赤と紫のコントラストだ。

「一応ね、俺も相当考えて言っているんだ。まぁ今日捻挫して格好は悪いだろうけどさ」

 身振り手振りで彼は私を翻弄し始めた。少しだけ見上げる高さの身長と、いつの間にか大人びてしまった骨格や瞳。吸い込まれるというのは、こういうことだというのか。
 だって、こいつは幼稚園の時からやんちゃで馬鹿で、超が付くほど馬鹿で。それから子供っぽくて、大嫌いだったのに。いつの間にか私は、変わっていく幸助に憧れを抱き、そして好意を抱きはじめてしまった。

「……悪くないよ。格好、悪くなんてないよ」

「うん?」

「だから、かっこ悪くなんてっ……――」

 温もりはすぐに伝わってきた。抱きしめられた身体が折れてしまうのではないかと思うほど、彼は私を強く、強く抱きしめた。肩に埋まった顔を自分はどうすることもできなくて。ただ、早くて緊張している彼の心音が嫌でも伝わってくる。一瞬何が起こったのかも理解できず、私のバクバクした心音も彼にバレてしまったのだろう。恥ずかしい。こんなに恥ずかしいことは生れて初めてだろうか。
 そして、この気持ちは伝わってくれただろうか。

「幸助っ……。くるしっ」

「あ、すまん。でも逃げないってそういうことでいいのか?」

「……。馬鹿じゃないの?」

 私はゆるんだ腕から顔を覗き、幸助の顔を見た。真っ赤で林檎みたいでかわいらしい。前言撤回。やっぱり子供っぽい。

「ありがとう、ありがとう幸助。でもさ、今日用事があってもうすぐ帰らないといけなくって。ごめんね」

「こっちこそ急でごめんな。あの……。」

「幸助、私もねずっと前から好きだったよ」

「え……。今なんて?」

「しーらないっ。二度なんて言いませんよー」

 呆気にとられた顔をして、幸助は茫然とそこに立ちすくんだ。それに舌を出してからかうと、いつもの幸助に戻って小さく笑った。
 あぁ、やっと伝わった。



 地面に転がった鞄を拾い上げ、河川敷の坂を登る。辺りは暗くなっていて、街灯も点くか点かないかのさなか。私の少し下を歩く幸助に、私は正直浮かれ上がっていた。
 今日から幸助が彼氏で。これ以上に無い嬉しさを噛みしめて、ルンタルンタと坂道ながらもスキップしそうになった。
「ねえ幸助」

 私は河川敷の坂を登り終え、やっと舗装された道路に出る。振り返って幸助を見ると、幸せそうなやわらかい頬笑みでこちらに近付いてきた。

「明日、一緒に学校行きたいなー」

「おう、分かった。メール入れとくよ」

「ありがとう。なんか不思議な感じ。あの幸助と付き合えるだなんて」

 クルリとスカートの裾を翻し、一回転。鞄も一緒に回って 一瞬幸助にもあたりそうになってひやっとした。

「俺も、こんなことになるとは思ってなかったよ」

 それは私の台詞ですと言うと、彼はにこやかに笑う。

「じゃあまた明日ね」

「ああ、また明日」

 それが最後だったと思う。

 目の前は惨劇と化し、幸助の笑顔は一瞬にして去った。見えるはずのない自分の赤い液体で視界が遮られる。車の重い音がした。臭い排気ガスが口から入ってくる。
 見たくない。幸助のそんな顔は、見たくもなかった。けれども、私が死んだ時。私が死ぬ直前、彼は泣きじゃくって子供らしくしていた。いつまでもそれなら良かったのかもしれない、なんて。

 大好きな人の目の前で死ねて幸せ? まさか。そんなわけないでしょう。もっと一杯いろいろしたかったのに。付き合って10分もしてないのに。沢山好きって言って。どうでもいいことで喧嘩して。初キスも幸助にならあげてもいいかな、なんて思っていたのにな。

 意識はそこまで。記憶もそこまで。はい終了。

 そうか、私はちゃんと幸助に好きって言えてたんだ。でも後悔しかないね。後悔しか残ってないよ。






「後悔、しか、なかったよ……」

 白い部屋には満月で部屋が照らされる。地面に溜まった涙の湖が、その光を反射させては絶望しか連れてこない。

「大丈夫だから」

 青年は私の背中を何度もさすってくれる。吐き気しか起こらなくて咳き込んでしまったら、何度か軽く背中を叩いてくれた。
 大丈夫なわけないけど、でもそんな言葉はそっと私の心を休ませてくれる。

「知っているか、ここは鳥籠なんだ」

「知ってる……よ。天国に行く前の休憩所でしょ」

「そうだが。そうじゃなくて。今のお間には聞こえるはずだ」

「なにが?」

 彼は「耳を澄ませてごらん」と言うので、私の錯乱した頭でもそれは分かったから耳を澄ませていた。
 彼の息のする音。私の心音。泣きじゃくって荒くなった息と、鼻をすする音。
 それから、それから。

「明音、ありがとう」「明音のそういうところ、私大好きだったのにな」「なんでかな、まだそこにいるみたいだ」「明音、明音ってば」「馬鹿だったけど、いいやつだった」「ありがとう、私の娘でありがとう」「明音が居なくなったら寂しいよ」「事故なんて、災難すぎるわ」「まだ若かったのにね」「明音、大好きだよ」「お姉ちゃん、早く帰ってこないかなー」「大好きだったのに」「明音、明音」「早く戻ってきてよ。私一人じゃ寂しいよ。明音、あきね……」

「ありがとう」
「ありがとう」
「ありがとう」
「ありがとう」
「ありがとう」




「明音、ありがとう」
「大好きだよ、明音」


 どうして聞こえるのか分からなかった。なじみ深い人から聞いたことがない人まで。でも、家族や友人の声ははっきりと聞き取れた。何処からともなくやわらかい声が、吸い込まれるように耳に入った。
 みんななんで感謝ばっかり。もっと悪いこと沢山したのに。こんな死に方で幸せなんて思ってないよ。でも、でも。どうしてだろうな。今は軽くなったかもしれない。
 本当は、私が一番言いたかったよ。
 お父さん、お母さん、大好きな水穂。それから、少しだけだったけど両想いになれた幸助。
 本当は私が言うよ。

「ありがとう」


「それから、あなたもありがとう。私、今なら飛べるかもしれない」

「月夜は空に舞い上がりやすい。行くといいさ。もう大丈夫なはずだから」

 私は小さくうなずき、湖面にさよならを告げて立ち上がった。見上げるほど高い天井は、ガラスを忘れさせるほどに透明で空に浮かぶ月や雲を鮮明に映し出す。
 飛ぶってよくわからないけど。それでもなんとなく、私は飛べる気がするんだ。


 さようなら、鳥籠。私は飛び立ちます。



 

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