それはある日のこと

それはいつかの昼間。あるいは未来。




「それが困ったんだ。俺は今素晴らしく機嫌が悪い」

 だからどうしたというのだと、私はしばし彼のことを理解するのに時間が掛かった。まぁ、時間が解決することでもないし、気にしないってことが一番の解決方法だと思うのだけど。

 自称天使(しかし背中には白い羽と、頭には輪っかがある)は、長く白い髪を乱してイライラと部屋の中を歩きまわる。
 だからと言って自分はいつも通り椅子に座り、いつも通りに天井を見上げる。天井は存在しないといえば存在しないが、代わりにあるのは青い動く天井。ガラスを通して見える空は今日も変わらず蒼天であった。

「どうしたんで――」

「うっせぇなぁ。機嫌が悪いって言ってんだろ?」

「だからなんでですか。こっちも迷惑ですけど」

 眉をひそめて密かに抵抗してみてが、蛇に睨まれた蛙。見事に上から目線できつく睨まれた。
 シュンとして肩を落とし、またじっと空を見る。今日も雲もなく、濃い青い空が広がっている。まるで海を覗いているかのような感覚に陥る。海の中に鳥がいるような。ちょっと不思議な感覚。

「あのなぁ。俺だって暇してるんじゃないんだ。いつまーーでもお前がここにいるの迷惑なんだって。あ、いや、迷惑ってか困る」

 迷惑と困るの違いが分からないが。

「お前もわかるだろう? いつまでも此処に居ると依存し始めるんだ。それこそ麻薬と一緒」

「麻薬、ねぇ」

 自称天使は向かいの椅子に腰をおろす。羽が邪魔なのか前の方に座り、背筋が自然とピッとなっている。がしかし、片腕を机につき前のめりにしてこちらを睨む。

「飛べ。なぜ飛ばない」

「なぜって言われても。飛べないものは飛べない。飛び方も知らないし、羽が生えるようなこともない。第一天使様がここに来るってことは俺は異常なんだろ。そういうことじゃないのか?」

「だーー! だから面倒なんだよ。だから、これだから!」

 がむしゃらに白い長髪をかきむしる。ぼさぼさに乱れた髪がイライラをそのまま表しているようにも伺える。これは、到底天使には見えない。

「あのな。わかるか? 今お前の天国での扱い」

「知りませんけど」

「ここは天国でも地上でもない。誰からも遮断された隔離空間だ。誰かに聞かれることもない。外部機密もここから漏れることは絶対にない」
「それは外部機密事項……」

「理解が早くてなにより」

 呆れて天使は深い溜息を吐いた。乱れた髪は一回だけ手で撫でると、一本一本がガラスかのような透明感を生み出した。さらりと揺れて背中にとどまる。白い肌が天井からの光で反射した。

「じゃあ何か、お前はここが永遠にあるとでも思っているのか? お前はもう死なない。死んでいるからな。それならばなぜ此処に居る? これは不老不死と変わらないんだよ。一度死んでいるのになぜこんな場所に閉じ込められていると思う? もう100年も居るんだ。考えたことくらいあるだろう」

 もちろん考えたことがないわけではなかった。

 どうして他の奴らが飛べるのか。
 どうして自分だけが飛べないのか。

 いつでも自分は飛ぶことしか考えていなかった。そりゃそうだろう。ここから出ていきたい。あの空の向こうにいる鳥のように、自分もなりたかった。こんな所、早くでていきたい。なのに背中には羽が生えやしない。ジャンプしたって変わらないのだ。

 少しだけ間が開いて、天使は目の前の椅子に腰を下ろした。ぎこちなく背中の羽を折り畳み、ほっと一息吐く。
 一瞬嫌味かと思ったが、ちらりとこちらを見てくる。気遣いする気は多少はあるらしい。

「お前さぁ、そろそろ自分の立場考えろって。自分が何やってるかわかってる?」

「……。依存」

 ぽつりとつぶやく。
 依存症状。それが治ればきっと自分はここから飛べることが分かっている。そして自分がなぜ飛べないのか。

「ここに来る人間は何かしら過去に後悔があってやってくる。私自身が過去に何かあったかどうが、それはもう思い出している。けれどもそれでも飛べないってことは。それだけ自分が過去の自分を後悔しているということ。そして……」

 自分自身が管理の鳥となってしまったことで、この場所自体の意味が自分に適用されていないということだ。
 管理の鳥は、ここに来る人間の心を癒し、安心させる。しかしそれが自分には出来ない。

「管理の鳥ってのはさ、もともと存在しないんだ。先に居た人間とちょっと話して、ちょっと安心して、それで飛べればいいんだ。じゃあお先に飛びますね。そうやって互いに遠慮しながらも、飛んでいく。そういうサイクルなんだ。けどてめぇはいつまーでも見送る側。自分が飛ぶってことを忘れているんだ」

 知っている。全部、天使が言っていることはすべてあっている。自分も同じ考えを持っているからだ。

「残念ながら俺はお前を癒してあげられるほどの温かみなんて持ち合わせていないしな。そろそろ管理の鳥なんていう肩書き捨てて飛ぶってことだな。天国じゃあそろそろ行方不明者扱いだし、密かに天国の奴らも慌ててる。お前が此処に居るってことをいつまでも隠せない。世界のサイクルが狂うってことはとてつもなく重大な出来事なんだ。本当に内部の人間の一部しか知らないことだから、他の天使にはあんまり言うなよ」

 他の天使。こんな天使が他にも一杯いるって考えたら寒気がする。もう少し温かみがあって欲しかったが。でもそれは自分の甘えだということも十分承知である。

「なぁ、ドードー鳥って知ってるか?」

「ドードー?」

 天使はよっこらせ、と腰を持ち上げた立ち上がった。大きな白い翼が眩しくて、思わず目を細める。

「無人島に生息してた鳥なんだけど、羽があるのに飛べないんだ。天敵が居ないからという理由で羽は退化し、小さくなってしまった。体もずんぐりむっくりでノロマな野郎だ」

「それは、どういう意味で私に言っているんだ?」

「はは、まぁ、そうならないようにがんばれよっと」

 するととてつもない光が部屋中を駆け巡り、その光に目が耐えられなくて閉じざるを得なかった。
 そうして目を開くと、そこに居たはずの天使はいなくなっていた。

「ドードー」

 それはこの青い空には飛んでいない鳥。
 見たこともない鳥。

「飛べない、鳥」

 ずっしりと刺さった釘が、いつまでも抜けなくて。




   

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