雨の日に

   雨が降っている。曇天から降り注ぐ鈍色の液体が、自分の袖を抜けて身体に沁みていくようで、正直気持ちが悪かった。
 捨て猫が隣で鳴いている。段ボールから出て自分で餌を探せばいいのに、と見下しながらそう思った。
 慌てることも無くこれ以上濡れることもないだろうけど、自分は公園が目に入ったのでそこにある公衆トイレに入ることにした。足元に居た猫は誰かがどうにかするだろう。自分が考えるべきことではない。

 トイレは新しいわけでもなく、雨の所為で地面が多少濡れている。窓も全開だ。足元でビシャビシャと雨粒が跳ねてはジーンズの裾が濃く染まっていく。電気は昼間なので点いていない。入ったら自動で点くなんて便利機能が付いている様子もない。それに元々そんなもの望んではいないし、どうでもいい。どうせ窓から雨と一緒に光も満ちているからだ。

「飽き飽きした」

 一言呟き、その携帯は半分に折って地面に投げつけた。音を立てて転がり、黒くヒビの入った画面が無情にも此方に向いた。
 ふと気が付いて、鼻に付く匂いがする。鼻を押さえたくなるような、けれども嗅ぎ覚えのあるような、ぬったりとした匂い。暑苦しいこの露時期には不具合なほどの歪んだ空間。
 男性のトイレからは聞こえるはずのない女性の声に、自分は不快さと眩暈のような頭痛を感じる。

 結局彼らはそんな見つかるか見つからないかの狭間を楽しみ、スリルを味わう。それに踊らされている自分がまるで馬鹿のようだった。
 足元で跳ねる水も、天上から滴る雨も、全部が自分を否定しているようで気に食わない。
 一つだけ閉まっている男子トイレの個室。

「ねぇ」

   そんな言葉が二人の間を引き裂くか? まああり得ないだろう。どうせそうやって盛り上がって、楽しんでいるに違いない。それが、心の底から嫌でしょうがなかった。
 背後で雨が跳ねていく。頭上から雨粒が飛んでくる。
 ガツンとそのドアを蹴り、ドアが凹んで女の短い悲鳴が聞こえた。男がこちらに向かって何か叫んでいる。野太くて、汚らしい声だった。それに自分は踊らされている。気持ち悪い。

 外は雨だ。けどそんなのどうでもよかった。雨だろうが晴天だろうが吹雪だろうが、そんなもの、もうどうでもよかった。
 傘というものが嫌いだったのか、何か手に持つのが嫌だったのか。それは分からないけれど、自分自身が雨の日に傘を差したのは幼稚園児以来記憶には残っていない。
 公衆トイレから出て、空を見上げた。血反吐が出そうな嫌な思いをして、でもそれでも世界は何も変わってなくて。変わったのは空だけだろうか。空はいつでも裏切らないって知っている。

「ニャア」

「あれ、お前出られたのか」

 先ほどまで世界なんて知らなかった猫が一匹。自分の足元には生を受けたばかりの一つの命があった。
 足元にすがりついてきて、可愛いといのには否定はしない。しかし誰かにすがって生きようだなんて、それは甘いってもんじゃないか。なんて猫に言ってもしょうがない。人間が馬鹿なだけだ。

「ニャァアー」

「餌は無いぞ」

 首根っこを持って持ち上げると、手足がブラブラと力なく揺れている。まん丸い瞳がキラキラと期待と希望のまなざしでこちらを見つめている。何か出るとでも思っているのだろうか。


 雨が上がって、太陽が雲の隙間から顔を覗かせている。ただの通り雨だったらしい。
 そんなことは裏腹に、足元では猫が一匹。お弁当の残りを貪っている。ムシャムシャと。意気がいいのはいいことだろう。
 スーパーの裏で調達した廃棄直前のお弁当を盗み出し、いくつか持ってきた。いつも自分はそれを食べているのだが、それを調達しに行く時にこいつはいつまでも付いてくる。しょうがないから蹴ったりはしない。人間よりよっぽどいい。
 自分が住んでいるのは橋の下、コンクリートと鉄筋の間で、上で通っている車の音が響いてしょうがない、住み心地は最悪な場所だった。しかしまぁ、雨風が防げればそれでいいかと思っていたので、問題は無い。冬は段ボールと毛布があればそうそう問題は無いと思う。

「なぁ、お前は生きていたいって思っているんだろう」

 食べ続ける猫を見れば、生きたいという誠意が言わなくても伝わってきた。食というのは身体のエネルギーを摂取して、それを動力源に人間は動いて生きている。それすなわち生存するための行為、またはそれ自体が儀式的な意味をなしているのかもしれない。

「おいおい、盗んだ弁当は猫行きかぁ」

 見上げれば目の前に見るからに不良とでも言っていそうな荒れた青年が立っている。自分よりは年下に見えなくもない。若干子供らしさがどこからともなく漂っているようだ。髪を茶色に染め、学ランと思われるものは改造されている。正直ファッションが1世代遅そうな格好であることに間違いはない。

「何の用だ」

「何の用だぁ? お前さっきトイレに入っただろう」

「一日に4回くらいは入るけど」

「そうじゃねぇよ。頭弱いクソが」

 それはこっちのセリフだが、そんなもの一つひとつにケチをつけていたらきりがなさそうだ。

「公衆トイレ。××公園の公衆トイレだ」

「あー、はいはい。もしかしてトイレで××してたのあんただったの? そりゃあ不謹慎だった。申し訳なかったです」

 とは、当然ながら思っていない。それを彼も分かっているようだが自分は知らんぷりである。
 言葉も惜しまず直接言ったのが不味かったのか、それとも心が少しもこもっていないのが気に食わなかったのか。どっちにしろ現在彼に殴られたという現実は変えられないだろう。
 口内が切れて、血が溢れだす。鉄の味が充満し、地面にそれを吐きだした。

「俺の彼女が怖がってんだよ」

「だからなんだよ。あんなところでやるのが悪いだろう。理不尽な理由を押しつけるな。迷惑」

「なんだって?」

 そう思った時には彼のごつごつした手に掴まれて、ぴゃーと小さく鳴く子猫の姿があった。口元に潮ジャケのカスが付いていて、あの時と同じような丸いキラキラした目をしていた。何も、怖さも知らない猫が俺を求めていた。それが、気に入らない。

「お前みてーなのが居るから、むかつくんだよ」

 理不尽だ。理不尽すぎる。それが、それが理由なのか。それが理由だというのか。
 猫は宙を舞い、荒れた茶色の川へと投げ込まれてしまった。その時の青年の顔はおぞましく、そして憎たらしいそんな不細工だった。
 それよりなにより、自分は気が付けばその濁流の中に飛び込み、必死に黒い物体を探した。1メートルほど先に見つけて、手を伸ばした。

「おい、おい!」

 なんでこんなに必死なのだ。
 身体は冷えて、言うこともきかない身体は僅かに指先のみが動いた。黒い物体は何度も何度もみゃーと鳴いて、水面で必死にもがき苦しんでいる。
 次の瞬間、自分はその物体の首根っこをつかみ、思い切り岸辺に投げた。転がっていくのが目に見えて、こちらに向かって鳴いている。が、しかし、自分が岸に上がることができない。足元は不安定で、指先も動かなくなった。そのうち口に水が入り込み、ジャリっと砂の味がする。空の隙間から青空が覗いている。これは、きっと。





 紅茶が好きだった。母がよく入れてくれていた。クッキーも好きだった。紅茶に合わせて母がよく作ってくれた。
 母が事故で死に、狂った父が借金を作った。俺は居場所が無くなったから家を捨てた。

「そういうことかい、天使さん」

「残念ながら私は天使じゃない」

「そっか、でもあの猫は生きているのかなぁ。俺はそれだけが気がかりなんだ。人間なんてどうでもいいんだ。裏切り狂って死んでいくだけの生物なんて、見ててもしょうがないし」

「お前の後悔はそれだけか。猫は生きているよ。今もあのスーパー裏のお弁当をこっそり食べて生きている」

「そうですか。ならよかった」

 自分が死ぬことに抵抗は無かった。死んでもいいと思った。あれは事故じゃなくて、自殺に近い。いや、自殺だ。死んでもいいと思っていた。自ら進んでやったことだし。
 目の前の彼は俺のことをどう思っているから分からないけど、でもまぁ関係ないや。それが分かったなら、関係が無い。

「ありがとうございます。なんか、迷惑だったかな」

 ぽかんと彼は口を開いた。それから、少し間があって、俺と同時に吹いて笑ってしまう。何か、馬鹿みたいだ。

「じゃあ飛ぼうかな」

「そうか。なら天井は開けてある。飛ぶといい。きっと今なら飛べるだろう」

 白い部屋はいつの間にか夕日に染まり、黄金一色となっていた。自分の思い出話はそんなに長引いてしまっていたのかと、急に恥ずかしくなってしまった。

「クッキーありがとうございます。今度会えたら美味しいクッキー作りますね」

「もう来るな。来なくていい」

「はは、そうかもしれませんね」

 しっし、と彼は俺を邪険に扱い手を振ってくる。背を向けて呆れている様子なのは、多分自分の行動と言動が悪い。正直申し訳ない気持ちがこみ上げていた。

「じゃあ、ありがとうございました」

「はいはい。早く行けって」

「ははは、じゃあ」

 背中は冷たいとか痛いとか、そういうのじゃあなく、温かい感覚だった。ふわっと、まるでマシュマロをくっつけたような柔らかさに自分は包まれた。それから頭が真っ白になって、一歩前に踏み込む。

 背中には羽根があるのだろうか。きっと、そうだ。
 ふわりと浮いた身体が、あまりにも気持ちがいいから、俺は眠るように瞳を閉じた。あの猫が、こちらに向かって鳴いている。そんな映像がふと脳裏に浮かんで消えた。




 

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